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映画・文学評および雑記

映画『火花』考・ヒロインとしての菅田将暉

※映画『火花』、評価高くないっぽいけど私はすごく良かったと思うよという話。映画のネタバレ・ドラマ版との比較あり。

 メディアミックスって原作をどう解釈して再構成するかって作業だと思うんだけど、ドラマ『火花』は「徳永から見た神谷のカッコよさとロクでもなさ」、そして「徳永の選択」に主眼を置いていた。徳永の物語と、徳永の目を通した神谷の物語、二つの軸でドラマは展開する。徳永役の林遣都は抑えた演技で、あくまで狂言回しの役割に徹している。それが髪を染めた神谷をなじるシーンとか、最後の漫才シーンとか、ドラマのクライマックスになる場面になると爆発的な演技を見せる。
 一方、映画『火花』は徹頭徹尾「徳永の物語」だ。徳永から見た神谷像はここではメインテーマではなくて、神谷をみる「徳永の目」の方がフィーチャーされている。菅田将暉は終始テンションが高い演技で、思いつめたような目で神谷をまっすぐに見る。しかし、神谷(と相方)以外とは目を合わせて話すことさえできない。

 菅田将暉林遣都の徳永役の違いは、漫才バトル後の打ち上げのシーンによく表れている。林遣都の方は「僕、抜けます」といって中座してしまうような、飄々としたところがある。でも菅田将暉の方は、相方にいわれて話の輪に入ろうとするけど出来なくて、座敷の真ん中で立ち竦むばかりだ。

 はっきりいって菅田将暉の徳永役は小説『火花』の徳永とはぜんぜん違う。でも役作りに一貫性があって、映画の主役としてはとても魅力的に完成されたキャラクターだと思う。
 たとえば徳永と神谷・マキの3人で初詣にいくシーン、徳永の方が神谷より長く拝んでるところを見ると、やっぱりこの映画『火花』は徳永の物語なんだなと解る。
 あのシーンは主題歌の『浅草キッド』にも繋がるけれど、歌の中で「夢を託した百円を投げて真面目に拝んでる・顔に浮かんだ幼子の無垢な心にまた惚れて」というくだりは、徳永からみた神谷を彷彿とさせる。でも実際の神谷はサッサとお詣りを済ませて、「五円で何祈るねん」とうそぶく。このズレがきっと映画『火花』のキモで、神谷は徳永にとって理想的な「師匠」にはなってくれない。

 徳永にとっての理想と、現実の神谷の乖離は、マキをきっかけに顕著になる。神谷のマキに対する煮え切らない態度に、徳永ははじめて「イヤです」と神谷に訴える。「徳永と遊ぶって言うとアイツお金くれる。だから俺、毎日おまえと遊んでることになってん」という神谷に、徳永はショックを受ける。徳永ははじめて神谷を軽蔑して、そのことに自分で打ちのめされている。
 あのシーンは徳永の良識を描いていると同時に、徳永がマキに対してある種のシンパシーを抱いていたことを示唆している。もし徳永が芸人じゃなくて、女性で、つまりマキと同じ立場だったら、マキのように神谷に尽くしたんじゃないか。

 マキはけっきょく神谷との暮らしにケリをつけて、別の男と結婚する。ラスト近く、徳永は井の頭公園でマキを見かける。子どもを連れて幸福そうな姿に、徳永は安心したように微笑む。徳永自身、すでに芸人を引退し、不動産会社のサラリーマンになっている。
 マキはもう一人の徳永だ。神谷を「捨てた」マキが幸福になっている。それは引退することを選んだ自分への肯定に繋がる。あのシーンはマキの救済であると同時に、徳永の救済でもある。

 ラスト近く、神谷は徳永に「芸人に引退はない」と語る。それは神谷なりの徳永への肯定であり、エールだ。徳永は沁み入るような表情で「ありがとうございます」と頷くけれど、「いっしょに漫才やろう」という誘いには決して応じない。

 小説では、ここで徳永がなんと答えたかは明らかにされていない。ドラマでは「マジすか」といって笑うだけだ。ハッキリ「イヤです」というのは、映画の徳永だけ。

 たぶん、映画のあとの徳永と神谷の人生は、もう二度と交わることはないんだろう。徳永はもう、漫才や笑いを語らない。なにしろ「ほかに宛てなき二人」だから、別離は約束されている。

 要するに、映画『火花』はある種のラブストーリーだ。漫才は舞台装置にすぎない。だけど、監督の板尾創路はその舞台装置に並々ならぬ愛情を示している。舞台袖で出番を待つ若い芸人たちの撮り方がやさしい。エンドロールでは「いつか売れると信じてた・客が二人の演芸場で」と歌う桐谷健太の声をバックに、よしもと若手芸人の名前がずらりと並ぶ。私はここで泣いた。切実な演出だと思う。

 

追記:

浅草キッド』といえば、作詞作曲は言わずと知れたビートたけしビートたけしが映画界にはじめて本格進出した作品といえば、『戦場のメリークリスマス』だ。冒頭、桐谷健太が砂風呂に埋まって生首みたいになっているシーンは、あのデヴィッド・ボウイのオマージュなんだろうか?